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体験で納得  

体験の再生


 私は既視感(デジャ・ビュ)の体験に乏しい。
 なので説明されてもピンと来ない。
 厳密にはあるのだけど、はっきりしない。
 子供の頃にそんな体験をしたような気がしているけど今はほとんどない。
 そういう体験をしているのは夢の中のような気がする。
 夢は記憶の再構成だから、断片的な地形の印象のリンクが現れる。
 既視感が、もし軽い夢(脳の潜在的な活動)の一種だと説明できるなら分かり易いのだけど
 この言葉に意味を感じている人にとってはそれは納得できない話だろう。
 私には、ややもすると人は記憶を操作してしまい易いという説明の方が納得しやすい。
 
 はっきりこの現象を区別できないのだ。
 人が記憶を操作するのも日常的に見ているし
 地下街や地下鉄のホームでは方向を見失う(私は方向音痴です)。
 自分が信じている地形的既視感覚があてにならないのをよく知っている。
 脳が記憶を再構成する際に、怪しげな選択肢を多数用意することも体験している。
 (逆にその要求に応えるのがノベルゲームである)
 ここで間違いを犯すと、目的の場所につけなかったり、反対方向の電車に乗ったり
 誤った記憶を事実として位置付けてしまう。
 特に最後をやってしまうと、メッセージを発信する仕事はできなくなる。
 これは科学とは違う。
 人間の芸術と言うのは、誤りであれ、正しいものであれ、意図的に構成されるメッセージ
 だから、まずそのメッセージが破綻してないことが重要になるのである。
 
 納得という感情を引き出すのも重要だが、これは体験を語るか、体験させることで
 引き出せるし、作られたものか現実かは別として体験部分が貧しいと説得力がなくなる。


さまざまな雑音


 情報過多の世の中で、正しい情報に集約されていくとしたら、
 正しいと思われる情報か、希少な情報に傾向していのだと思う。
 WikiPediaというサイトも真偽の程では慎重に考えている人は多い。
 明らかな間違いをそれらしく書かれて憤慨している作家の方もいる。
 自分の作品にも間違いはあると思うが、体験を欠いた内容にはならないよう気をつけたい
 と思う。こういう自身の立場を考えると簡単に既視感を肯定しにくいのである。
 自分が納得できる根拠を見つけてないから、ウソで体験を書いても誰も納得してくれない
 んじゃないだろうか。
 
 剣道は自国が起源だという人たちがいる。さらにその信憑性を表現されて怒ったりする。
 (もっとも、色々な人が見るTVアニメで偏った着想を使うのは題材としてまずい。
  とはいえジョークとして受け止める余裕のない国は予め特定できるのだから
  そのエピソードだけ削っておけば良かっただけの話だと思う)
 
 何らかの関係はあったかもしれないし、着想が同じかもしれないという部分の信憑性に
 頼っていて、それ自体はウソと断じる気はないし、あっても過去の交流の豊かさが感じ
 られて何も問題はないと思う(一方で余裕のない人は友好的な関係すら揚げ足取りのた
 めに使うものである。人知礼儀の文化も重んじられていない)。
 
 ただ、冷静に見ると、前述の同時発見と同じ。剣が前衛的な武器の模倣であった時代に
 これで模擬戦を行うという発想がどこの世界にあっても特殊な事情ではない。実際、模擬戦
 と言っていいか分からないが西洋のフェンシングという例がある。模擬刀の材料として竹が
 使われても不思議ではない。
 加工しやすく、入手しやすく、軽く、強いからである。別の言い方をすると、メリットが
 多いから採用されやすい。広まるためには子供から年配の方まで、多くの人が入手できて
 簡単に扱えるということが前提になるからである。木刀との比較は普及度である。
 
 一応のもっともらしい起源もありそうな話なのに、あからさまにそれはないだろうと言わ
 れてしまうのは、なぜだろうか。
 
 まず時間的な連続性が断たれている。そして根拠がありふれすぎている。
 憶測のみで計測がない。
 その為、以上を調べられて関係のないということを逆指摘されてしまったのである。
 噂話の投げっ放しに近い状態だと、受け手の解釈が重要になってしまい、
 本来のメッセージとは関係ない所から突き崩されてしまう。
 自ら隙を作り込んでしまうのである。
 
 これが作品なら、他国へ剣道を伝えた人物や子孫を描いたり
 証拠となる自国銘の模擬刀を始祖が持っていた
 ――というような話を基礎として作った裏付けの話を見せないと視聴者は納得しないだろう。
 
 しかしそれよりも個人的に気になるのは語られている体験が貧しいことである。
 貧しいというよりない。
 憶測の中にそれらしい伝承や現代に通じる印が息づいてないからである。
 
 簡単に言うと、これらの主張をする人が他国の剣道を知っているか?
 その精神を理解できるか?
 技の伝える意味を解説できるか?
 その道の修業者と戦って勝てるか?
 それとも一歩中に入ると何も言えなくなってしまう人たちなのか――ということである。
 実際技の意味を解説した途端、自らの過ちを説明することになってしまうだろう。
 (逆に、そこに一脈通じる根拠を示して説得力を生み出さなければならないのにである)
 
 これでは『そんな気がする』レベルの話で
 他人から「単に貴方の思い込みですね」と言われたらそこで終わり。
 メッセージとして一方的に発信しても受け手のいない騒音になってしまう。
 引き際を失い、主張のボリュームだけ上げて強制しようという所まで行ってしまう。
 
 口先だけで作った事実は、口先だけで消滅するだけだ。
 
 信憑性を持たせるなら現代につながる視点がある程良い。
 証人がいない所まで時間を遡れば根拠も反証も曖昧にぼかすには都合がいいかもしれないが
 体験も掘り起こせないので説得力がなくなる。
 仮定と提起だけ投げかけて信憑性は二の次というレベルで終わってはお粗末である。
 
 作家だったら逆を行かなければならない。
 体験の貧しさ=文学性の乏しさとなってしまう。
 
 それに比べると、批判される作品の方が芸術的な価値がある。
 実際一面の事実を突いている所がその作品の肝である。
 コマ外に添えられた一言も、作品とは関係ないが作品を作った体験の豊かさはよく分かる。
 
 以上は一般論だが、最終的に受け入れるか受け入れないかの問題は受け手の好みに
 かかってくる。好みで言うと私は好みではない。そこで作品が損をしている所はあるが
 プロ原作ではないのだからもろもろ含めて制作側の配慮すべき点だろう。

 

[ この記事は 2009/4/1 以前に作成されました ]



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